福商潮流100年より
 隆々の校運を誇つた福商に私が校長として就任したのは昭和十五年九月初。
支那事変第四年目で国民精神総動員新体制運動の風が吹き始めてはいたが、これが日本丸をひっくり返す猛台風に発達しようとはまだ誰も考えてはいなかった頃であった。その後戦線はますます拡がり国内の非常体制は急速に強化され、企業整備が始まり配給統制の綱が締められ、
商業無用論が軍官僚層に高まって来て嵐の前ぶれがわれわれに襲いかかって来たのは間もないことであった。
 十六年十二月八日の対米英宣戦直後の十二月二七日には、第39回生である五年生は繰上卒業式を行わねばならなかった。商業学生は速かに生産戦列に加われという非常措置である。進学希望者だけ補習科ということで翌年三月まで学習を認めるというのであった。その後終戦まで三年間は繰上卒業、工場動員、繰上卒業取止め、四年卒業制などと戦局悪化と共に猫の目のように変る命令のままに振廻わされ、商業学生は格別痛めつけられ続けたのであった。
 福岡市学校教育八十年史福岡商業のところを開くと
「十九年四月戦時体制による商業学校の転換により女子部新設存続。同年五月九大附属工専移譲同校開設。二十一年校地校舎九大より返還。工専移転」と僅かに四行に収められている。しかしこの四行の文字の裏に母校が受けた苦難は実に辛いものであった。

 十八年初秋のある日、県内政部長岡田包義氏が市学務課長に案内されて来校した。校内を見せてくれと言う。帰りぎわに玄関で「聞きしにまさる立派なものです。どうもおじゃまさま」一体何しに来たんだろうといぶかっていたところ、その頃福商を国に献納させ九大附属工学専門部を作る案が秘密裡に練られており、内政部長が実地検分に来たというわけで、それから朝日新聞の電送写真で学校の配置図を東京に送り計画が出来上ったということは、後で聞いて口惜しがったことであった。
 当時全国の商業学佼は若干を残して他は工業学枝に転換せよという指導が行われていたが、母校は勿論存続するものと自他共に確信していた。ところがその秋のある日、ちょうど教練査閲が行われていたところへ市役所から電話でちょっと来いという。査閲だから出られないというと済み次第ぜひ来いという。そこで査閲官の帰り車に便乗させてもらって市役所に行くと、
市長室(市長不在)に同窓会幹部諸氏が沈痛な面持ちで額をあつめておられる。「何事ですか」と問うと「『学校をよこせ』というんだ」とのこと。
 そこへいとものんきそうに岡田内政部長が「どうです。お話はきまりましたか」と入って来た。そして何も彼もない「まあお国のためです。どうかよろしく」とさっさと帰って行ってしまった。それからにわかに反対運動を始めたが、一応同窓会にも儀礼的了解はとったことになっているしご時勢ではあるしどうにもならない。貴族院議員の出光佐三先輩も文部省にかけ合っていたがどうにもならない。とうとう学校は国に寄付、十九年以降生徒募集停止、在学生(一年生は45回生)の卒業を待って廃校ということになった。せめてもの慰めとして福岡商業学校女子部という名称で、女子高等小学校の勤労動員で空いている教室を借りて女子商業を開設させると言う取計らいをしてもらったのがせいぜいであった。
 そこで十九年四月の新入生は四年制女子生徒でこの人たちによって福岡商業学校の名跡は辛うじてうけつがれた。この頃在学中の男子生徒二、三、四、五年生は全部工場動員してしまって、本校南側上下教室では十九年四月から九大工学専門部が開校し、北側上下教室と主な中央部は本校が保有していたが軍の使用要請が絶ず、一度は荷物を持って乗り込んで来た何やら本部は玄関払いをやったが、席田飛行場司令部の乗り込みには抗しきれず北側教室を占領されてしまった。
 しかし生徒はいなくても当時の男子二年生が卒業するまでは
『ここの主人はおれ達だ、校長室や職員室は福商だ』と頑張っていたが、実は心細い虚勢を張っていたのである。生徒は毎日のように誰かが予科練だ特幹だ少年兵だと志願して行く。先生も応召や転任が続く。キャプテンラストをつぷやいで難破船の船長のような気持を味わったのはこの頃のことであった。
 二十年三月三一日には42回の五年生と43回の四年生が同時に卒業し、四月には女子も。六月十九日には空襲で女子部校舎は焼失してしまった。直ちに女子部を本校に連れて来て授業を始めた。その後の戦況は周知のとおりで、広島についで八月九日長崎の原爆となった。その翌十日朝登校した女子一年生に独断で休校を令し、市外疎開を勧めたが間もなく八月十五日の終戦となった。そこで直ちに休校を取消し勤労動員生徒には工場引揚を命じ、十六日から日本と福商とを再建するため一日も休まず福岡商業学校を開校すると宣言して校内の防空壕埋めや教室整備を開始し、沈没寸前の福商は再び活動を始めた。この頃夏休みはなくなっていたが終戦によって他校はいづれも九月の始業を決定していたので連絡不徹底もあり初めは欠席者が多少あったが福岡商業学校は終戦後一日の空白もなく活動を開始したわけであった。

 これからまた裏話であるが八月十五日正午終戦勅語放送があり同日午後(と思う)潟洲町の当時の福中講堂で終戦勅書奉読式があった。その帰途市役所にまわり当時の安永登助役に会つて
「戦争がすんだから学校を取りかえしていただきたい」と頼んだところ「まだすんだばかりではないか。そんなだんではない。殊に一旦献納したものをかえしてくれとは市としては言えない」と言う。「それでは私の方でやるから助力して下さい」と言うと「まあ校長さんがおやりになる分にはかまわんでしよう」という返事。そこでその足で県庁に行って当時の内政部長桜井三郎氏に面会した。福商が国に献納されて九大工学専門部となったいきさつを述べ、戦争もすんたことだから元通り返してもらうよう御尽力願いたい旨懇願した。ところが桜井氏はいとも冷ややかに「僕は知らんね」と言ったので、さらに「申し訳ないがあなたの前任者岡田内政部長が専らなさったことですからどうぞ」とひたすら懇願した。「そんな山は引継を受けていない。僕は忙しいからね」と突放された。終戦で気もてん動していただろうからやむを得なかったと思うが、その時はむしょうに腹が立った。『よしそれでは独力だ』と九大に出かけて百武総長に面会したところがさすが海軍大将総長。「そんな事は始めてお聞きしたがお話の通りとすればお返しするのが順だと思う。いろいろ手続きということもあろうから今ここでどうということも言えないが、御希望にそうよう尽力しましょう」といわれたので一ぺんに頭上の暗雲が吹き飛んだ心地で帰って来た。ところが、百武総長は九月になると退官してしまわれた。これは大変だと早速九月に後任の奥田護総長を訪問して百武総長の約束を話してよろしく願うと頼むと「折角ですがあそこはお返しできません。日本再建のため九大工学部は大拡張をする必要がある。あそこは第二工学部を設ける予定であるからあしからず」との話。これには全くびっくりした。
 そこで、同窓会幹部諸氏にもお頼みしてひまぐりのつく人をわずらわして
九大本部にしつこく陳情を始めた。秋ロから始まって、寒風の真冬まで先輩にも大分御迷惑をかけた。その甲斐あって翌二一年二月二八日であったかと思うが、工学専門部長河東教授が総長からの使として「長い間ご迷惑をかけましたがいよいよお返しすることになりましたから」と言ってこられた。

 長い長いほんとに長いこの半年であったが、この時はほんとに嬉しかった。かくて昭和二一年四月には福商四十七年の歴史に最大受難を刻む二年間の空白を女生徒でつないでもらって再び晴れて男生徒募集が行われ、桜の花に今度は優にやさしい大和撫子も加わって新生福商が出発したわけであった。

(筆者/福岡市市教育長)

福商通信第9号(昭和30年10月20日発行)掲載記事を一部編集し再録したものです。

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