【初代・藤野隆助支部長】
 初代の福商会東京支部長は元福商教頭・15回卒業の藤野隆助先生でした。
 二代目は生涯弁護士だつた大正11年卒業の19回・秋根久太先生でした。昨年5月31日にご逝去されたことを聞いたのは6月9日開催支部同窓会の1週間後のこと。何方にもお知らせがなかったようですが、見事、99歳の「白寿の祝い」を済まされたとのこと。真の大往生というものでしょう。三代目の現石村暢五郎支部長が去る平成13年12月24日に心不全のためご永逝され、府中市・市民の森聖苑で同月28日お通夜、29日にお葬儀が執り行われました。平成6年度から現在までの支部長石村先生は昭和11年33回卒業生で、日本大学・商学部の名誉教授でございました。

福商会東京支部はいつ頃から本格的な活動となったのでしょうか。戦後間もなく昭和23年に上京して、神田須田町・柴金商店に勤務された42回生・西原聡介氏の懐古談では「杜長の23回生・柴田金作氏が当時の神田鍛冶町にあった福岡銀行東京支店の隣、日本紡績に勤務の同期23回生中村菊蔵氏とともに福岡の母校から見えた当時の校長や就職担当の先生達を歓迎しょうと在京の同窓生に呼ぴ掛けられた会合が東京支部の同窓会の嚆矢ではないでしょうか。その走り使いをしていましたのが私達ですよ」とある。
 記録では、昭和36年3月11日会場・池袋西口『白雲閣』で40名参加、会費千円、学校からの来賓清原校長・有田、越智先生他4名とある。その時、作成された名簿には総勢230名(2回生〜59回生)、連絡先は福商同友会28回生・恵木正信氏と同期東京温泉常務・池田百三郎氏とある。その頃すでに、藤野隆助先生が初代の東京支部長であったと考えられる。大先輩2回の出光興産社主・出光佐三氏、7回の東京瓦斯杜長の高田五郎氏14回飯野海運会長の俣野健輔氏をはじめ、あの右翼の児玉誉士夫の右腕といわれた通称彦ちゃん・28回の吉田裕彦氏もすべて引受けられたとのこと。目黒の「迎賓館』が同窓会場であったことは同窓生の自慢の一つでもあった。昭和43年11月15日「福商創立70周年記念同窓会」迎賓館の参加数は206名、会費・旧46回まで20OO円、高1〜9回1500円であった。昭和41年末、『新宿酔心』という和風レストランを開店した私の処にも.先生はよく訪ねて見えた。
世話人は24・東巧精器の竹下弘氏が先導で27回の共栄化学社長吉村清氏に、28回主婦の生活社常務の樋口徳光氏42回・日本コントロールカンパニイの西原聰介氏、52回・大和商会杜長今林照男氏の面々であつた。昭和47年西日本新聞社刊・記者野田雄一郎氏著書『福商潮流』のインタビューを受けたのも懐かしい当時の一齣であった。また、東京支都企画の記念レコード『福商潮流』の存在も忘れてはならない。福商から東京芸大(旧東京音楽学校)と進んだ異才41回・平井哲三郎氏が作曲・指揮、演奏東京佼成吹奏楽団、制作東芝EMI。この時代の産物です。
 藤野隆助先生は福商から長崎高商を卒業後大正11年から昭和15年まで母校での教鞭を執られたと記録にあるが、私の記億では昭和14年、2年生となった4月には校長不在である。五代目・菊池武幹校長退官あとには時の藤野教頭をめぐって跡目の抗争が起こりその維果、既に学校を去られていた。
 先生は昭和15年上京、奥様は九州・飯塚の島田家の出。原田家に養子となられた福博の財界人『おたふくわた』17回・原田平五郎氏の実妹である。翌16年、長男与志隆氏が福岡の箱崎から東京府立第6中学校(現新宿高校)に入学と聞く。さぞや数々のご苦労の中で無念な思いもあったことであろう。東京では、『島田興産』のお仕事をされ、中野区本町(当時・干代田町)の自宅屋敷内にはおたふくわたの社員寮があった。また都市公害紛争調整委員、区民生委員・保護司・町内会長など世話好きの性はお変わりなかったようだ。27回生・小林喜利氏が福岡県議会長や福岡県魚市場社長、福岡県漁連会長となった時、全国魚卸売市場連合会・全国水産物卸業協会の専務理事としての業績を遺されている。後年、従五位勲四等瑞宝章を叙勲されておられる。
 先生は生来書画の才があり、伊藤深水ばりの美人画を描かれた。書も達筆、七十七喜の祝いに戴いた自筆の「寿」と染め抜かれた帛紗をまだ持っている。歌舞伎のお話などもよく伺った。仏教もまだまだ勉強したいと言われていた。昭和52年中野坂上の宝仙寺でのお葬儀。参列された同窓会の人々の記憶も随分と遠くなったものだなと、当寺の前を通るたびふと感じるこの頃である。先生の箱崎の旧宅は現在『栢綾園』という古風喫茶の店になっているそうだ。その二階の書斎はそのまま瀟洒な佇まいの風趣も残されいる。特にバラ模様のガラス戸など珍しい輸入品に違いないと、ご子息からお聴きした話です。