第10回は永田さんからの紹介で同級生83回生の柴田正章さんに登場していただきます。柴田さんは中洲にある老舗のお鮨屋さん「二葉鮨」の3代目。厳しい修業時代から今年の山笠のお話しまでいろんなことをお聴きしました。

【PROFILE】
■name : Masaaki Shibata
■birthday : 1967.feb.19
■graduation : 1985.3(#83)
■home page:“ぐるなび”内
       <http://r.gnavi.co.jp/f034400/>

■ ふざけんな、と思うことが修業
― 今日はお忙しいところお邪魔します。早速なんですが福商を卒業してからのことを簡単に聴かせて下さい。
 東京第一ホテルのなかの日本料理屋「くるまや」に3年、東京・日本橋と虎ノ門のお店に合わせて2年。どれも住み込みで修業しまして、23歳の時に帰ってきました。

― 東京での修業はいかがでしたか?
 当時はバブルの絶頂期で、ホントにすごいの一言ですね。やっぱり仕事のできる人が集まってて、お客さまの層もそうですし、職人も高い給料が出るんで集まってました。
 うちの(修行してた)お店ではお弁当もやってたんですけど、三千円、五千円のが飛ぶように出るし、近所のお弁当屋では始発で出勤してきてお昼の弁当を売り切ると帰っちゃうんですよ。半日仕事で成り立つなんてすごいところだと思いましたね。
 市場(築地)も迷子になるくらい広くて。

― 当時はそうですね、お菓子で言うとティラミスやパンナコッタなどいろいろ流行りましたね。
 流行の移り変わりが激しいのには驚きました。あそこ(東京という市場)は流行を作っては潰し、潰してはまた新しいものを流行らせる。実業家の方の感覚は全然違います。地域に根ざして永く(商売を)やろうというのはないです。で、大概そういう人はよその人ですもんね。(修業先は)下町のお店でしたから、地元のお客さまが多くて「江戸っ子に悪いやつはいないよ」といつも言われてました。

― 僕は修業という経験はないんですが、やっぱり辛いこともたくさんあったでしょう?
 まあ、辛いのは当たり前。サラリーマンの方は精神的に追い込まれることが多いと思います。私たちもなくはないですがやっぱり『手』のほうですね。親方(をはじめ職人)は口べたですから、手が出るんです。。。

― 実際には。。。
 戦前、戦中を経験した親方は感覚が違います。生きるか死ぬかを体験してる人は何も恐いものがありませんからね。包丁が飛んできたり、ビールケースが飛んできたり。避けてるから事故にはなりませんけど。京都辺りでは隠れていてもっと厳しいかもしれませんね。3年は仕事させてもらえないと聴きますし、中には掃除するにも箸で落ち葉を拾えという所もあるそうです。
 でも、私はいい親方についたと思います。「何でこんなことをしなくちゃいけないのかと思うことが修業。辛い。嫌だ。ふざけんなという気持ちを持ち続けなさいよ」と最初に言われました。

― そう思い続けることで変わってきましたか?
 そうですね。どうして(相手が)そう思うのか考えるようになります。
 やはり人の気持ちが分かる人が成功します。たとえ3年しか修行しなくてもいい板前になりますよ。これだけメディアが発達していれば後からいくらでも勉強できます。有名な板前さん(神田川さんなど)は案外修業の年数は短いんです。ある程度やるとあとは頭を切り替えて自分で勉強された方ばっかりです。

― 味、そのものより心遣いが大事なんですね。
 味、味覚的に美味しいと感じるベースはあるんですが、それ以上に美味しいと感じさせるのは盛り付けだったり、雰囲気だったり、接客だったりします。まぁ、味と言うのは「あやふやなもの」なんです。良い意味でこちらのペースに入ってきてもらうと言うのがいいですね。

― なるほど。。。こちらでは永くやられているようですが、何年続いてるんですか。。。箸袋に本店銀座とありますけど、暖簾分けかなにかですか。
 63年になります。。。そうです、暖簾分けです。(親方に)信用され身内同然になって初めて暖簾分けしてもらえるんです。今は登録商標制だから何の脈絡がなくてもいいんですけどね。。。昔はホントに尽くした人に名前を分ける。(親方の)信用を汚さないように商売してゆくからこそ永く続くんです。
 (初代の)おじいさん(故 柴田徳治さん)と言うのがちょっとかわった人で、元々仙台の出身なんですが東京に出て修行して、料理人としては名の通った人だったようです。戦争では料理人として戦地へ赴き、戦火の無いところで偉い人に料理を出していたそうで、皇居で(天皇)陛下にも握ったと聴いています。。。
 (博多で開店したのは)ある時、こちらの観光主の方にお話しを頂いて、「土地をただで貸してやるから、そこでボチボチ飯食いなさい。俺が来たら何か喰わせてくれ」ということで川端にお店を出したのが始まりです。当時は商売らしい商売じゃなかったみたいですけどね。

■山笠 変化と継続
― 今回はお話しを伺うためにお店にお邪魔していますが、お店の入り口や店内に山笠関連のものがたくさんありますね。
 え、もちろん山笠には、出ています。今年は特に一番山笠で赤手ぬぐい。忙しかったですね。

― 赤手ぬぐいですか。それは大変だったでしょう。
中洲の町内会でもいろんなことやってますが、今は何でも変わり目ですよ。山笠にしてもそうで、「例年通り、例年通り」の繰り返しでは行き詰まってくる。山笠の永い歴史で始まった頃と今とで内容が同じかといったら全然違います。臨機応変に変わっていくことで存続できる。同じ形を継続しているのはかえって首を絞めることになると思います。

■ 福商牧場。。。
―  在校中、部活などは何されてましたか。
 部活は書道部です。元々サッカー部だったんですけど、すぐに足の病気で退部して。そのままブラブラしててもいけないからということで書道部に入れられたんです(笑)。店内の書の中に顧問の野田先生のものもあるんですよ。サッカー部の先輩方とも交流はありますし、先生方も来店されます。

― 同窓会などは。。。
 修業に行ってて、(福岡にいなくて)空白の期間があるんで、福商の集まりに行かなくなっちゃいまして。同窓大会は…6月中旬ですね。その頃は山笠が忙しくて行けないんですよ。広告料は出してるんですが。。。(苦笑)

― 最後に柴田さんにとって、福商ってどんなところでしたか。
 とても良いところで、『福商牧場』という感じですね。広い囲いのなかで自由に育ててもらったなと思います。先生と生徒が、なぁなぁじゃなくてアットホームだった気がします。先生は親身になってくれるし、生徒も真剣でしたよ。放牧主義。決して放任主義じゃないです。先生が熱かった。放任だといけないけど、守られた中で自由にやらせてもらえたら、(将来)やりたいことも探せるような気がしました。

― 『福商牧場』は、うまく表せてるなぁと思います。今日はお忙しいところ長い間お話しを聞かせていただきありがとうございました。

Editor:Coppa Mijinco

次回、第11回のフクショウのわ
どうぞご期待下さい。


▼△▼ 編集後記 ▼△▼
お話をうかがい、一段落したところでお鮨を頂きました(もちろん自腹)。玉、ヒラメ、イカ、トロ、ウニ、サケ、赤貝そしてアワビ。レモンを搾ってアワビにかけるとキュッキュと身をよじり、新鮮がよく分かります。玉も自家製で手の込んだもの。本当に美味しかったです。(僕の舌にはもったいなさ過ぎました)こんなお鮨屋さんが中洲のど真ん中にあって、それでいて納得料金。。。
と、宣伝ばかりになりましたが、これからも美味しさを僕らに届けてほしいなと思います。